カテゴリ:memory( 6 )
トタン屋根の上で町内を眺める。
昔住んでいたハンドバッグ工場(兼住居)は緩やかな傾斜のトタン屋根で、我が家が使っていた居住部分の物干し台をがんばって跨ぐと出られた。
幼稚園児には勿論キケンなんだけど、屋根の際に近付かないようにすれば大丈夫。子供には充分広かった。何といっても傾斜が緩やかなので過ごしやすかったのだ。
屋根は深い緑色で、当時大好きだったサンダーバード2号のコンテナみたいな感じがするところも気に入っていたんだ。

小学1年の冬に隣の町内に越してしまったのがちょっと残念だった。自分ちが持ち家になるのは勿論嬉しいことだったけど、新築のその家は平屋で、屋根に登ることももう出来なくなってしまった。
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by junbronson | 2009-12-23 02:06 | memory
左投げ右打ちになった理由
まだ幼稚園児の頃、近所の友達と野球の真似事をして遊んでたのだ。
ある日、その子のお父さんがバットの使い方を教えてくれたのだけど、僕が左利きだという事は知らないので、当然右打席で教えてくれた訳だ。
ボールは左で投げてるんだけど、そのお父さんは気が付かなかったんだろうね。
僕も素直に覚えたのだった。何しろ知らない事だったから。

幼稚園に入って字を勉強する時には、右手で書かせる事に物凄く抵抗して、とうとう園長先生も匙を投げたほど頑固だった。だけどバッティングのしやすさなんて分からなかったんだね。


という訳で長いこと右打だったのを今年直したのである。
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by junbronson | 2009-12-04 15:37 | memory
幼稚園入園の日
幼稚園に入るまで、僕は相当自由に遊んで過ごしてる、という自覚があった。
職人さんを回ればお菓子は貰えるし、金持ちじゃないけどオモチャもそこそこあったし、家は広いし(工場だから)。
幼稚園に入園する日の朝。園児服を着て靴を履いた玄関で僕は泣いたのだった。
もう自由な暮らしは出来なくなる。これから幼稚園、小学校と、束縛された社会的な毎日が続くんだ。と思うと泣けて来たのである。
勿論こんな難しい言葉でその時に表現出来た訳ではないけど、その時はまさにそういう気持ちだったのだ。

まあ実際は、風邪を引くと拗らせる体質で意外と病気に弱かったために、1年の1/3位は休んでたような気がする。


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by junbronson | 2009-11-11 01:01 | memory
オート三輪に乗った記憶
日常の些細な記憶の断片。

おそらく小学2、3年位だったと思う。
その当時でももう少なくなっていたオート三輪に乗せてもらった事がある。

僕はオート三輪の助手席に乗って利根川支流の土手を走っていた。
窓は全開にしてあり、吹きつける風が快適だった記憶がある。
ただ、誰が乗せてくれたのかが全く覚えていない。

親父や叔父さんが借りて乗った、という事ではなかった。
友達でオート三輪を持っている家はなかったと思うけど、定かではない。
何となく思い当たるのでは近所の牛乳屋のおじさんじゃないかという気がしてるのだが、
どうだったのだろう。
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by junbronson | 2009-10-16 01:17 | memory
ハンドバッグ工場の家2
4〜5才の頃か、まだ幼稚園に通う前、自分ちであるハンドバッグ工場の中でよく遊んだ。

ミシンの並んだ通路を三輪車で回り、職人さん達から黄金糖飴やLookチョコをもらったり、ミシン掛けをじっと観察したりしていた。
騒いだり乱暴に動いたりする子供じゃなかっので、そうして遊んでいても叱られなかった。

工場の中に宿直室があって、押入を改造したような二段ベッドになっていた。
雨の日は、この部屋で広告紙の裏によく絵を描いて過ごした。
仕事で使うメモ用紙にするために新聞の広告紙がたくさんあったのだ。
この紙をもらってウルトラマンやジャイアントロボや車の絵を描いた。
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by junbronson | 2009-10-14 01:48 | memory
ハンドバッグ工場の家。
小学1年まで住んでいた大青田は柏市と流山市の境目にあった。
家はハンドバッグの小さな工場に併設された木造二階建てだ。
工場は「こうじょう」じゃなく「こうば」と呼んでいた。
小さいといっても従業員は十数人いて、人数分の作業机やミシンが並んでいたので、子供からすれば結構広い空間だった。
うちの家族はもちろん経営者じゃなくて、管理人兼住み込みという事だったのだろう。細かい事情は省くが、とにかく子供にとってはワンダーランドであったのだ。
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by junbronson | 2009-10-12 23:55 | memory